昭和50年03月11日 朝の御理解



 御理解 第27節
 「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸な事が重なって、世間では、どう言う物であろうと言う様な事があろうが。なにほど、人に悪い事をせぬ正直者でも、人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」

 確かに信心を、まぁ勿論お道の信心です。金光様のご信心をさせて頂いておるのなら皆んな、立派な人格者であるとか正直者とは限らない。返って悪の強い返ってだらしのない、そういう人も信者の中には沢山ある訳です。それでも矢張り一度信心を頂く様になって、所謂お取次ぎを頂いて、お願いをする事を覚えさせて頂くと、おかげを受けると言う事だけは確かです。お願いをする。
 だから確かに世間でいう正直者じゃ、あの人は神仏のような人じゃというても、信心がなからなければどうしてあの人の家には、あんなに不幸が続くだろうかと言う様な事にも、言わばなり兼ねないのです。そこでお互い信心をさせて頂いて、おかげを受けて、神様が段々有り難くならせて頂いたら、その有難い神様のお心を一つ本気で解らせて貰う。悟らせて貰うて、その神様の心に沿うて行くという生き方を身につけると言う事。ね、だからそれからが信心、所謂真心。
 そしていうなら神様の様な人じゃ、仏様の様な人じゃと言う様に、段々おかげを頂いて参ります時に、始めてお道の信心者と言う事が言えると思う。神に会いたいと思えば、庭の口に出てみよと。言う様な御教えがありますよね。神に会いたい。本当にそのおかげに会いたい、会うというのではなくて、神様に会うと言う事。おかげによって信心を知るというのではなくて、本気で心を神様に向ける所から頂けれる神様。それが私は信心だと思うんです。しかもそれが限りなく続けられて行く。
 私は昨日、お月次祭の中でも申しましたが、昨日正教君がお話しをしておりました、前講で。そして本当に思いました事は、真剣に神様へ向かうと言う事は、真剣に教えに向かう。取り組む事だと言う事です。言うならば、寝ても覚めても神様というが、言わば寝ても覚めても言う、その教えに取り組ませて頂く事だ。そして取り組ませて頂けば頂くほど、有り難くなる。取り組ませて頂けば頂くほど自分が解る。
 昨日、正教君の話しを引用致しますとです、人を当てにしない。人を頼らない。人を責めない。例えばこの三つの事だけでも、本気で取り組んでみて、自分自身の、まぁ言うならば詰らなさと言う物が、愈々はっきり解って来たといっております。ね、その解って来れば来る程です、ね、だから神様に縋らなければおられない私と言う事になって来る。そういう姿にです、私は神様は心を向けて下さると思うですね。
 そういう心に私は神に会いたいと思えば、そういう心の状態にある時に、そこに神様を身近に感ずる事が出来ると思うです。私は本気で教えに取り組むという姿は、もう素晴らしい事だと思うです。ね、是ならね、必ず人を動かすです。神様を動かすだけじゃないです。神様に伝わるです。いや神様だけではない人に伝わるです。私は昨日此処で、彼の話しを聞かせて頂きながらもう、暫く感動が止まないくらいだった。それも何でもないその、有り難いと言う訳でもないんです。
 只東京行きの帰りに、ね、ご本部に途中下車して、お参りをさせて頂いた。丁度御霊地はお湿りであった。そのいうなら春雨、煙る御霊地に降り立って、ね、そして是からお広前に、又は奥城に進んで行こうという、その事その事が神様のこんな、まぁ神様の感動と思わなければおられない感動であった。それから段々雨の中を、言わばお広前参拝させて貰。奥城にでらせて頂いて、というて、その話しを進めて行く内にもう、本当に何か知らんけれども、あの感動を覚える。
 そして後でははぁ成程と思うた事がです、ね、本気で教えに取り組んでの御本部参拝であったからだという風に思います。自分で合楽をたった2日か3日か離れただけで、もう心がこんなに散漫になる。身軽うなる。ね、それを感じさせて頂きながら、ね、こんな事ではいかん。こんな事ではいかん、という心で神様へ向かう。しかも本気で教えに取り組んでの結果が自分と言う物を愈々見極めさせて下さる。
 つまらん自分だと。だからこそ縋らなければおられない。そういう心がです、そういう心で、神様へこう向かうて行っておる、そのご本部へ降り立った時の神様の感動がです、私が昨日御結界で感じた感動ではなかろうかという風に、段々思わせて頂いた。成程金光様の信心すりゃ、正直者ではなくてもです、いうなら神仏とは反対に、それこそ自分を思うたら、鬼じゃろうか、邪じゃろうかと言う様な心さえある自分自身をです、見極めて、ね、そこから立ち上がろうとする。
 そこから信心を求めて行こうとする、そういう私は姿勢、そこからが信心だと思うんですけれども、それは成されなくってもなら信心しておかげを受けて行くと言う事は、受けて行けれるのだと皆んなが。ね、だからそこでおかげを知る事は出来るけれども、本当の神様に会う。神に会いたいと思えばというか、又は本当の神様を頂きたいというか、本当の信心というのはそこの所からの、言うならば回心ですね心が回ると。
 そういう取り組み方にならせて頂かなければ、唯おかげを受けると言う事が、人が良いとか悪いとかと言う事とは別物だと言う事だけでは、相済まんと言う事になる。確かに自分の心を神様に一心に向けて来る。昨日一昨日でしたか、宮崎から「甲斐」さん、という方がお参りしておられます。て、ご親戚の、二日市の方におい出られて昨日のお月次祭を頂いて、そして昨夜は此処で泊めて頂いて、今朝此処へ一緒にご参拝をなさっておられる。もう何時もお届けは電話か手紙ですけれども。
 本当にそれはもう昨日お話を聞かせて貰うと、本当におかげを受けておられる。色々な上におかげを頂いておられる。先日から電話でお届けがあっておった。体の事も昨日此処へ来らせて頂いて、夕食後、お便所にやらせて頂かれたら、もうそれこそもうビックリする様な体に変調が起こって、おかげを受けておられる。ね、ですからおかげを受けると言う事は、人が良いとか悪いとか、近いとか遠いとか、参ったからとか電話でお届けしたからと、そんな事は無い、おかげは受けるそれで。
 そういう例えば、人が良いとか悪いとかとは別物、おかげを頂くのは別物といわれる様なおかげですから、それをなら幾ら一生頂き続けた所で大した事はないと。其処から自分自身を、言わば本気で見極める。本気で教えに取り組む。本気で教えを鏡にするそこから自分自身が分かって来る。其処から和賀心が神に向こうて行く。愈々生神への道を進ませて頂く事が出来る。
 そういう私は心の状態に神様が、ね、言うならば本当の向きをこちらへ向けて下さる。そういう信心を身に付けて行かなければいけない。唯おかげを頂くとか、唯おかげに酔うておるというだけではなくてです。おかげを頂く為に縋らなければおられないと言うのではなくて、自分自身が愈々解る所から、縋らなければおられないという信心になって参りますと、本当なおかげになって来ると思うですね。
   どうぞ。